2011年03月06日
五百羅漢
興津の清見寺だ。そこには古い本堂の横手に丁度人体をこころもち小さくした程の大きさを見せた青苔の蒸した五百羅漢の石像があった。起ったり坐ったりして居る人の形は生きて物言ふごとくにも見える。誰かしら知った人に逢へるといふその無数な彫刻の相貌を見て行くと、あそこに青木が居た、岡見が居た、清之助が居た。ここに市川が居た、菅も居た、と数えることが出来た。連中はすっかりその石像の中に居た。捨吉は立ち去りがたい思いをして、旅の風呂敷包の中から紙と鉛筆とを取出し、頭の骨が高く尖って口を開いて哄笑して居るやうなもの、広い額と隆い鼻とを見せながらこの世の中を睨んで居るやうなもの、頭のかたちは円く眼は瞑り口唇は堅く噛みしめ歯を食いしばって居るやうなもの、都合五つの心像を写し取った。五百もある古い羅漢の中には、女性の相貌を偲ばせるやうなものもあった。磯子、涼子、それから勝子の面影をすら見つけた。

居並ぶ無数の阿羅漢像。
悟りの境地には程遠い自分は、只々圧倒されるばかりである。
捨吉に倣って。
島崎藤村 『桜の実の熟する時』より

居並ぶ無数の阿羅漢像。
悟りの境地には程遠い自分は、只々圧倒されるばかりである。
捨吉に倣って。
